体験会が終わって、子どもたちがマットの上でふざけ回っている横で、お父さんに呼び止められることがあります。
少し言いにくそうに、こう聞かれます。
「あの……実は学校で、ちょっとありまして。強くなれば、こういうの、なくなりますかね」
この質問も、20年やってきて何度も受けてきました。そして、この質問をされるとき、親御さんはすでにかなり悩んだあとです。学校にも相談して、家でも話して、それでも解決しなくて、最後に「強くする」という選択肢にたどり着いている。
だから、いい加減なことは言えません。今日は、この質問に正直に答えます。
結論から書くと、「強くなればいじめられない」は、半分は本当で、半分は嘘です。そして、本当のほうの理由が、たぶんあなたが想像しているものとは違います。
まず、いちばん大事なところ:「なくなる」のではなく「起きにくくなる」
レスリングを始めたからといって、いじめが消えるわけではありません。そんな魔法はありません。
ただ、続けている子を見ていると、同じことをされる回数が減っていくのは確かです。ゼロにはならない。けれど、明らかに減る。
これは私の印象論ではなく、クラブに来た子の保護者から、何年かにわたって聞いてきた実感です。
そして、その理由が重要です。強くなったから、ではありません。
理由1:「強くなったから」ではない。姿勢が変わるから
ここが一番の誤解です。
いじめられていた子が強くなって、相手をやり返して解決する。そういうことは、ほぼ起きません。というより、そうなったら指導としては失敗です。
実際に変わるのは、もっと地味なところです。
- 背中が丸まらなくなる
- 顔を上げて歩くようになる
- 声が少し大きくなる
- 名前を呼ばれたときに、すぐ返事ができる
これだけです。技でも筋力でもありません。
けれど、この四つは、外から見たときの印象を大きく変えます。うつむいて歩いている子と、前を向いて歩いている子とでは、声のかけられ方が変わってしまう。残酷ですが、子どもの世界ではこれが起きています。

レスリングは、ほぼ毎回、人と正面から組み合う競技です。相手の目を見て、正対して、押し合う。それを週に何回も、何か月も続けます。
姿勢が変わらないほうが難しいのだと思います。
理由2:転ばされても、怖くなくなる
もう一つ、はっきり変わるものがあります。受け身です。
受け身というのは、安全な転び方のことです。ちびっこレスリングでは、技より先にこれを教えます。マットの上で、転がって、倒されて、起き上がる。これを最初の数か月、ひたすらやります。
その結果、何が起きるか。倒されることが、怖くなくなります。
これは思っている以上に大きい変化です。押されたり、小突かれたり、足を引っかけられたりしたとき、多くの子は「転ばされる怖さ」で固まります。固まると、相手はもう一度やります。
倒れ慣れている子は、そこで固まりません。転んでも、すぐ起き上がって、けろっとしている。反応が薄いと、相手は続けません。

やり返すから止まるのではなく、面白くないから止まる。私が見てきた範囲では、こちらのほうが圧倒的に多いです。
理由3:週に何回か、居場所が増える
これは競技と直接関係のない話です。
学校でうまくいっていない子にとって、学校以外に自分の場所があるかどうかは、かなり大きい。クラブに来れば、学年も学校も違う子がいて、そこでは学校の力関係が持ち込まれません。
「学校ではきついけど、火曜と木曜はマットがある」
この状態を作れるだけで、子どもはずいぶん持ちこたえます。レスリングでなくても構いません。ただ、たまたまレスリングは、学校の友だち関係とは別のコミュニティになりやすい競技です。
ここからは、期待してはいけないことを書きます
ここまでを読んで期待が上がったかもしれないので、正直な部分も書きます。
レスリングをやっていても、いじめられる子はいます。います、と断言できます。
体が小さいこと、口数が少ないこと、集団のノリに乗らないこと。そういったことが理由で起きているとき、競技はほとんど関係がありません。
そして、ここは強調しておきたいのですが、いじめは、やられている側が何かを変えれば解決する、という性質のものではありません。姿勢が変わって減る子がいるのは事実ですが、それは「変わらなかった子が悪い」という話には絶対になりません。
学校に相談すべきことは、レスリングとは切り離して、並行して進めてください。競技を始めたから学校の対応を待つ、という順番にはしないでほしいと思います。
親が言ってはいけない一言があります
これだけは書いておきます。
「習ってるんだから、やり返してこい」
これを言うと、その子はレスリングを続けられなくなります。
理由は二つあります。一つは、実際にやり返したら、加害者になるからです。技を覚えた子が本気で手を出したら、相手はケガをします。そうなった瞬間、その子は被害を受けた側から、暴力を振るった側に立場が変わります。
もう一つは、もっと深いところの話です。「強くなったのに、やり返せない自分」という新しい負い目を、その子に背負わせてしまうからです。
期待に応えられない苦しさが増えるだけで、いいことは一つもありません。

言うなら、こちらです。
「マットの上で強くなればいい。外で使う必要はない」
うちのクラブでは、これは最初に伝えるようにしています。
で、結局どう答えているのか
冒頭のお父さんに、私はこう答えています。
「いじめが止まる保証はできません。それは学校と一緒に動いてください。ただ、この子の顔つきと歩き方は、たぶん半年で変わります。それでよければ、来てください」
これが、嘘のない範囲でいちばん誠実な答えだと思っています。
まとめ:変わるのは相手ではなく、その子の立ち方
「強くなればいじめられない」は、勝てるようになるという意味なら、嘘です。
でも、正面から人と組んで、転んで、起き上がることを繰り返した子は、立ち方と目線が変わります。そこが変わると、まわりの接し方も少しずつ変わっていく。その順番でしか起きません。
だから、もし今そういう状況でお子さんを連れてくるなら、勝ち星は当分忘れてください。見てほしいのは、半年後の後ろ姿です。
そこが変わっていたら、それはもう、じゅうぶんに強くなっています。


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